1993年(つながり103号より)
(参加者全員いざ出陣!) |
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去る11月21日に、第2回歴史ウォークが開催されました。第2回目の今年は、皇位継承を巡る古代最大の内乱「壬申の乱」で勝利した大海人皇子を取り上げました。午前9時、あいにくの雨となりましたが、受付場所となった吉野宮跡(梅谷醤油前)には、臨時バス又は乗用車で次から次へと参加者が集合。遠く東からは、千葉・東京。西からは福岡からも駆けつけてくれ最終500人近い人が参加してくれました。 9時30分ちょうど、大海人皇子のテーマが流れる中、龍門支部の福田・森本・山田君扮するたくましい舎人を先頭に、りりしい姿の大海人皇子(南君)と、とてもかわいらしい菟野皇女(戌亥さん)が入場して開会式が始まりました。そして、大海人皇子が壇上に上がり、「時は672年6月24日朝、今まさに出陣の時…」という説明と同時に、皇子が参加者に出陣の命を下し、参加者全員の「エイエイオー」という掛け声が合図となってウォークがスタートしました。 |
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(先頭を歩く舎人達) |
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参加者は壬申の故事に倣って赤旗を持った舎人達を先頭に、「日本書記」に記してある矢治峠越えをまず体験。急な上り坂の矢治は、とても厳しいものの、頂上の景色には感動してくれました。 |
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(第2ステージの歌人) |
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矢治峠を下りた所にあるのが第2ステージです。ここは吉野の歌のステージということで、吉野の代表的な和歌の前で、当時の天才歌人で吉野とも関わりが深く聡明で美しい額田王(出川さん)と柿本人麻呂が参加者を出迎えました。 |
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(ゴール地点でのバザール) |
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津風呂湖畔を歩き、入野トンネルを抜けた参加者は第3ステージであるババ川原に到着。あいにくの雨にもかかわらず、全員が傘をさしながら川原で弁当となりました。しかしこの光景も案外好評で、吉野川の清流と、刻一刻とその形を変えていく雲や霧に感動を覚えたという都会から来た人の感想もありました。昼食を終えると、参加者は高見川を越えて対岸へ。ここは元々橋がないため、森脇副部長中心としたチームが、2日がかりで作り上げた全長20mの「吉野唐橋」を渡ります。その川原をを暫く行くと、そこは第4ステージであり大海人皇子をおまつりする「浄見原神社」に到着。ここは本来なら国栖奏の舞台ですが、まるで菊人形のようにりりしい皇子と皇子の娘で貞淑な十市皇女が座っている姿に、写真撮影は元より、思わず拝む人もいたくらいです。 又国栖奏伝習所においては、国栖奏保存会の皆様の協力により、国栖奏の衣裳・楽器が展示されました。 南国栖を後にした参加者は、国栖の町中を抜け、ゴールである犬塚(国栖小学校)に到着しました。ゴールでは、雨で冷えた体を暖めるのに余りある婦人の方々のアユ雑炊無料サービスがありました。この雑炊は県外の人にも大好評で、何杯もおかわりをする人もいました。又、地元国栖を代表する地場産業である手漉き和紙の実演(福西弘行さん)と割箸の実演コーナーや、地場産品の展示即売コーナーにもたくさんの人垣が出来ていました。 |
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(国栖小学校が能舞台となる) |
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このウォークの最後の舞台となったのが、国栖小学校の体育館です。いよいよ「大海人皇子の道」のフィナーレを飾るに相応しい能「国栖」を見るために、すでに立錐の余地もない人々が集まっていました。先ず演者でシテ方の金春穂高さんの能鑑賞のポイントの話の後、再び青山茂先生から「大海人皇子と吉野」について、大変ユーモアたっぷりな講演をしていただきました。 |
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(吉野にやって来た大海人皇子) |
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そしていよいよ、金春流総勢28人による本格的な能「国栖」の始まりです。横笛と小鼓の音が一瞬にして参加者に緊張感を与え、それが体育館が能舞台へと変わる瞬間でした。大津軍に追われ、この国栖の地において翁の機転で危難を逃れたという逸話をもとに、天才世阿弥が作ったともされるこの「国栖」には、地元の伝承が随所に織り込まれており、始めて見る人も非常に興味深く鑑賞し、予定の50分間があっという間に過ぎました。しばしの間参加者全員が幽玄の世界に酔いしれました。日本が世界に誇れる古典芸能である能の舞台に、地元国栖がとりあげていることに多いに誇りを感じ、これを見ることにおいて、地元を見直すキッカケ作りが出来ればという我々の思いが通じた瞬間でもありました。 |